今回はクアラルンプールから電車で30分ほど北にのぼったところ(距離にして10数キロといったところ)にあるバトゥ洞窟のお話です。

バトゥ洞窟の母体となる山は唐突に垂直にせりあがった独立丘です。それまでフラットな地形がひろがっていて、この周辺もこの丘だけがいきなりある感じで、とても奇妙な印象を受けます。大和三山や平安京のゼロ座標たる船岡山のような感覚を覚えます。

独立丘の内部にある洞窟はヒンドゥー教の聖地となっています。極彩色に彩られた具体性に満ち満ちた彫像であふれており、安っぽいテーマパークのような装いが洞窟下部にはひろがっています(ヒンドゥー寺院の壁面びっしりに埋められた極彩色彫像を見たときと同じ印象です)。

この洞窟は極めて大きなドーム型をなしており、その大空間を上へ上へとのぼりつめていきます。その途上では先に漏れる光の神秘性と、上へ導く動線のダイナミズムがあり、期待感が高まります。先ほどのゴテゴテ彫像の印象も薄まって来てとてもいい感じです。
しかし、いざ最上部にのぼりつめると空っぽな空間しかありません。途方に暮れたのち、やや虚脱感に襲われながら洞窟をあとにすることになります。
いきなりそそり立つ独立丘の緊張感。洞窟のなかの先に何かがあるという高揚感。そしてクライマックスの位置にある空っぽ。洞窟をあとにした時に再びながめる独立丘の屹立。何かがあったはずなのに結局は核心を見ることができなかったという思い。これは日本の寺社によく見られる空間特性です。

上の写真は独立丘の麓にあるヒンドゥー寺院です。中央部の屋根を高め中心軸を強調しています。よく目立つ二つの金色塔状建築ですが、その一方は中心軸上にあって、下部の屋根の空間の高め方に呼応する一方、他方は下屋の位置に正面を90度回転させ配置されています。矩形平面上でこの2建築はクロスする軸線を描くのですが、下屋位置にある金色建築と向き合う位置(短手のクロス軸上)には特に何もなく、キリスト教教会のような左右対称の充足したラテンクロスではない、欠落したクロス(空っぽを孕むクロス)を形作っています。
多神教は数々の神様からなる宗教であることは言うまでもないですが、それは何かひとつに絶対性を与えないことでもあります。かといって一つ一つが脆弱なわけでもなく、個々は強度ある存在でありながら、全体としては森羅万象が響き合うことが目指されているように思います。
クアラルンプールの北に唐突に立ち上がる独立丘。その麓とその中にあるヒンドゥーの聖地。そこに多神教の根のようなものを感じました。