先の記事にあったように、東北は庄内地方に行ってまいりました。「親子で作る太陽の家」の講師をつとめることが主目的だったわけですが、同時に、その地にある建築を見て回りたいという思いも強く、自転車であちこちみてまわりました。

鶴岡のとある博物館に移築された兜造りの民家。もともとは朝日村の田麦俣に建つものです。2002年に井山武司さん主宰の「太陽建築研究所」に住み込んでいた時期に、車で山形市に行く途中、井山さんに紹介していただきました。山間に幾棟かが屹立する姿に、ただただ衝撃を受け、「こんな格好いい民家があるんだ」と素朴に感動したことを記憶しています。しかし、それと同時に「こんな複雑な形状の民家がいきなり立ち上がるものなのか?」という疑問を持ち続けていました。ある環境下におかれた時、その応答形式として形ができる民家において、これは複雑過ぎると感じた次第です。ただ、こんなのは少し調べたら、その成立がわかるものなのに、何かと不勉強なゆえに、何も調べずに今日までほったらかしにしてました。

移築されたこの建築はいまは展示空間となっていますが、その中に庄内地方に典型的な民家模型がありました。大きな寄せ棟屋根の建築です。兜造りは、明治期になって出羽三山参詣が下火になった際に、蚕を飼うために、この大きな寄せ棟屋根の妻側を切り取って、採光通風の窓を設けて成立したとのこと。要するに原型は寄せ棟屋根、社会状況の大変換にともなって妻側ぶち切りで、兜造りになったわけです。その意味で兜造りは「二次原型」とでも呼べると思います。

上の写真のアングルだと寄せ棟時代の風情を感じることができます。

切開されて蚕の空間となった3階の見上げ。光が入るとはいえ黒々とした空間です。。これを見つめているうちにいろいろ考えました。
原型たる寄せ棟屋根は、いうならば閉じ込められた漆黒の空間です。漆黒の空間の中には大蛇のようにうねりながら疾駆する梁や桁があるわけです。こういう屋根裏空間を稀に見る機会がある時、そこに縦穴住居のような大地と連続した原初の空間を、ついつい感じてしまいます。縦穴住居は大地に穴を堀り、そこに大屋根をかぶせただけの黒々とした空間です。それは言うならば洞窟の建築化です。
そのように見ていくと大きな屋根をもつ民家は、原初空間を大地から切り離し、柱で持ち上げて中空に封じ込めていることになります。そこに呪術的な意味があるのかないのかはわからないですが。
その封じ込められた空間に、有用性を見いだし、切開して多層階にしたのが兜造りです。使用しない広大な空間を孕む建築は、近代ではありえません。内側の空間の外皮がそのまま外部になるのが基本です。その意味で兜造りは民家の近代化を物語るものでもあります。ただ、この黒々とした空間に「お蚕さま」が無数に蠢く風景は、どこか有用性みたいなものを超える原初の風景を感じさせます。

その一方で同じく明治時代初期に蚕を飼うという目的に叶うためだけに建設されたのが上の建物です。鶴岡市の松岡開墾場に6棟残されています。

1層2層とも全て養蚕の空間。3層は上屋の通風口をあける通用廊下です。封じ込められた空間は皆無で、全木架構が露出しています。内部空間の外皮がそのまま外観になっています。短手方向の一断面を決めると、あとはそれを長手方向に連続させてつなげるだけです。完全な近代建築(モダニズム建築)の姿がここにあります。


こうなると蚕の蠢きが放つ呪術性はふきとび、蚕ブロイラーな様相を呈します。「この建築は蚕を飼うための機械である」といったように。
「二次原型」の兜造りには、「洞窟建築の屋根への封じ込めと、その切開」という古代から近代をつなぐ時間が孕まれています。10年以上前にただただ衝撃を受けたこの建築に、いまもその衝撃はそのままでありつつも、その奥底にあるであろうことを考えた今回でした。